物部氏に関係する地名と言われ、当地にある味鋺神社に祀られている宇麻志麻治命、味饒田命に由来する。
都市の地名
尾張国(愛知県西部)を中心に発展し、武将や城郭、産業発展の影響を受けた地域特有の地名。
「一色村」と「下社村」が合併されたとき、双方から「一」と「社」をとって「一社」とした。
猪子石神社と大石神社にある石の名前に由来する。石の名前の由来は、猪の形に似ていることから付いた。
「各務」という地名は、金属による鏡(銅鏡)などを作る鏡作部がいたことによるというのが定説。
金山彦命と金山比売命の二柱を主神として、金山神社には金属の神々が祀られている。尾張鍛冶の発祥地。
「掃部寮(かにもりのつかさ)」に由来する。掃部寮とは、役所の名前で宮中の掃除の担当部署を意味する。
社(やしろ)郷と呼ばれていましたが、後に矢白神社を中心に上社村と下社村ができたことが由来。
「岐」は岐路や多岐の用語の通り、分かれるという意味。「阜」は大きいや丘・岡の意味。左右を見渡せる岡。
吉良の名は八ツ面山に産する雲母(きらら)に由来する。中世には足利氏族の東条吉良氏が領主を務めた。
御用水の建設に貢献した愛知県土木課の黒川治愿(はるよし)技師の名前によったものに由来する。
国府宮は「尾張大國霊(おわりおおくにたま)神社」と言い、尾張国の総社。

熱田神宮に献ずる土器を作っており「御器所」という地名がつけられた。昔は「村雲の里」とも呼ばれていた。
名古屋市の西側は低地で洪水の被害が多く、安住の地を求め山深からず水多からずの高針を「極楽」とした。
昔は小牧まで海だった時期もあり、近くを通る船がこの山を「帆を巻いた」ので帆巻山と呼び、小牧山になる。
垂仁天皇の子である大中津日子命を祖とする許呂母別が、三河国加茂郡に住み着いたことに由来。
栄は元々、栄生の地名に由来する。「サコ」という地名はもともと「狭いところ」という意味。
景行天皇が伊勢に行った際、可愛がる猿が悪さをし、伊勢の海に放り投げたら鷲取山に逃げたことが由来。
尾張の大領主に七人の娘がおり、領主はその娘達を七ケ所に嫁がせ、嫁ぎ先を「一女子」~「七女子」とした。
昔中国の明国から帰化した「張振甫」という医者の名前に由来する。
五軒家新田は間米村の「本郷」に対して「前郷」と呼ばれるようになり、それがいつの間にか前後に転訛した。
昔、前津までが海で北に汐見山と命名された、小高い山の尾張名勝があり、高岳院が建てられたことが由来。
知立神社の御祭神とされる伊知理生命に由来する。鎌倉期に「智鯉鮒」、江戸時代に「池鯉鮒」と呼ばれる。
由来は諸説あるが、長崎県の対馬と関連する。この島は二つの島から成り立ち、対馬は津島から名を変える。
「つるま」という地名に「鶴舞」の漢字を当てた。水が流れる場所を意味する「水流間(つるま)」を由来。
文化元年(一八一二)藩は新田の御替地を道徳とし農民に与えた。方針が「道義を以て徳を施す」に由来する。
昭和三十四年(一九五九)に拳母市から豊田市に改称、のトヨタ創業者の人名が由来。
中世、武士の館の「根古屋」に由来する。尾張一帯には無数の根古屋が点在する。戦国時代の要となっていた。
東海道を歩いていると、海の鳴る音が聞こえてきたということに由来。
当初は干物町と称していたが、徳川義直が当地を通過した際、末代まで繁栄する場所である意味を込め命名。
古語辞典に、「泥」のことを昔は「ひぢ」と呼んでいた。
尾張へ流された藤原師長が娘と親しくなり、都に戻る際に琵琶を与えるが、悲しむあまり入水したことが由来。
「八事」は「岩之田(やがた)」が鎌倉時代から室町時代にまでに転訛したもの。
江戸時代に「弓矢場」が置かれたことに由来する。「指矢場」とも言われ、弓矢を射る訓練場が存在していた。