町名は、鎌倉時代より歌道、蹴鞠道を家業とした公家飛鳥井家の別邸があったことに由来する。
都市の地名
平安京の建設以来、日本文化の中心地として栄えた京都に由来し、寺院、宮廷文化、町衆文化に根ざした歴史を持つ地名。
右京区嵯峨の二尊院より念仏寺に至る小倉山東北麓一帯の総称。由来は「徒し」によるとの説もある。
現在の左京区・東山区にまたがる東山連峰の華頂山の西麓の一帯をいい、粟田口を冠する町名が多く残る。
東山区柿町通大和大路東入の町で、平清盛の弟で池大納言と通称された平頼盛の邸宅があったことによる。
上京区新町通一条下ルの町で鎌倉時代に五摂家の一つで一条実経を祖とする一条家の邸宅があったことによる。
慶長年間に角倉了以が高瀬川の開削を行った際、最上流の船溜である一之船入りが設置されていたことによる。
町名は、室町幕府の四職の家の一つとして権勢を誇った一色家の邸宅があったことによるという。

長岡京や平安京の造営に技術と経済力をもって大きな役割を果たした秦氏の根拠地。
中京区錦小路通鳥丸西入ルの町で、町名は祇園会に際して占出山を出すことによる。
上京区新町通一条下ルの町。当地は平安京官衙の皇親の名籍のことをつかさどる正親町があったことによる。
御室の名は宇多上皇が自身が建立した仁和寺境内に延喜四年(九〇四)に室(御座所)を営んだことによる。
『日本書紀』以来の古地名である葛野によるとも、湯津柱の樹があったことによるともいわれている。
六波羅裏門通柿町下ルの町。平氏一門で、門脇中納言と呼ばれていた平教盛の邸宅があったことに因んでいる。
北区の北東部のほとんどを含む地名で、地名の由来は上賀茂神社(賀茂別雷神社)が鎮座することによる。
天正十九年に豊臣秀吉がお土居を築造してのちに開通した南北の通りで、寺町通と鴨川の間を走っている。
下京区四条通鳥丸西入ルの町で、町名の由来は応仁の乱以前より、祇園会に際して函谷鉾を出すことによる。
山科盆地の南に位置し、西部は山地、東部は平地となっており、平地部に地名の由来となった勧修寺がある。
京都の代表的な広域地名。現在では祇園社の門前の四条通を中心とした鴨川東の花街町を意味することが多い。
ほぼ北は北大路通、南は今出川通、西は東大路、東は白川の流れに添い山間部も含む地域。
天満宮の創始以前は、平安京大内裏の北の野という意味で北嵯峨付近までを含む広い範囲をさしたと思われる。
現在も衣笠を冠する町名がのこる。衣笠山山麓一帯を総称する地名で律令制下では上林郷の区域に入っていた。
通り名は、この町筋に大坂・伏見からの材木・樵木・炭などを搬入・販売する店舗が多くあったことによる。
明治二年に開校した教業小学校を核とした、北は二条通、南は三条通、東は堀川、西は神泉苑通の地域をいう。
ミヤコ(宮処)は天皇の居所をいう。京、京洛、洛中、京師、花洛などさまざまな呼称が用いられてきた。
天正十九年(一五九一)の豊臣秀吉の都市改造の際に開通した通り。
上京区室町通下長者町下ルの町で、町名は五摂家の一つの近衛家の邸宅があったことによる。
愛宕山など背面の山々が険しいからとも、またサツガツ山(嵯峨山)の名を移したものともいわれている。
平安京造営の時に開設された三条大路に該当する東西の大路。
正式には西新屋敷傾城町というが「島原」の通称のほうがよく知られた。通称の由来は、島原の乱による。
賀茂川と高野川との合流点の三角地帯で、下鴨神社(賀茂御祖神社)を中心とする一帯。
豊臣秀吉の聚楽第が存したころ、その重臣加藤清正の邸宅があり、彼の役職「主計頭」に因んでいるという。
古代から近世に至るまで官庁街であった。明治八年に主税寮の跡地に因み名づけられたという。
通の名は豊臣秀吉により、現在の正面通本町に完成した方広寺大仏殿の正面の通りにあたることによっている。
中京区新椹木町通二条上ルの町。高瀬川の開削に従事した角倉家の屋敷が設けられ、町名となったという。
千本の名は、蓮台野への道に供養のために千本の卒塔婆が建てられたことによるとされる。
九世紀後半に醍醐寺を開創した聖宝が、今の醍醐山に登った時に美味な水を得たことによって名付けたという。
地名は東北に位置する大将軍八神社に由来する。吉凶をつかさどる神として、また武神としても信仰を集めた。
北区の広域の地名でその名の由来は近在に天峯、鷲峯、鷹峯の三峯があり、鷹網を張って猟をしたからとする。

通り名の由来は天正十九年(一五九一)に室町通二条より新京極通蛸薬師堂による。
平安京の最東の東京極大路にほぼ該当する南北の通りで藤原道長の土御門殿や源融の河原院などが建っていた。
平安京の条坊では、銅駝坊の東部に位置することにより命名された。

現町名の由来は、祇園会に際して、当町より蟷螂山を出すことに因んでいる。
現在の南区・伏見区にまたがる地名で、『和名抄』に見える鳥羽郷によっている。
明治時代に入り民有地となり、明治八年、中務省の跡地に因んで現町名が命名されたといわれる。
下京区四条通烏丸東入ルの町で、町名は祇園会に際して、当町から長刀鉾を出すことに因む。
天長七年閏十二月に、淳和天皇が清原夏野の双岡宅を訪れたという記事が地名のみえる早い例と思われる。
錦小路東洞院には魚市ができ、さらに江戸時代には特権的な地位を確立し、錦市場として活況を呈した。
昭和六年の右京区の誕生による京都市への編入に際して、西京極と称するようになった。
地名の由来は応仁元年に勃発した応仁の乱の際、山名宗全が率いる西軍の陣が置かれたことによっている。
町名の由来は豊臣秀吉による聚楽第の建設の時、秀吉のブレーンであった黒田如水の邸宅があったことによる。
「百万遍」と通称された知恩寺をさすが、知恩寺が建つ東大路通と今出川通との交差点の呼び名となっている。
幕府の管僚家斯波義将が兵衛府の唐名である「武衛」と称したことにより町名となった。
上京区千本通下長者町下ルの町で、町名の由来は豊臣秀吉の重臣福島正則の邸宅があったことによるという。
地名の由来は巨椋を枕に伏し見るような地形だから、また、伏流水の豊富なところであったからなど諸説あり。
千本通五辻上ルの町で、町名は今宮神社の祭礼に牡丹鉾を出すことにちなんでいる。
人家が鴨川の先端に位置するところから、ポルトガル語「ポント」から生まれた呼称ともいわれている。
三盛町の名は、清盛の邸宅とともに平家一門の頼盛、教盛の邸宅も営まれていたことによるものとされている。
延暦十四年(七九五)に桓武天皇が「紫野」に遊猟に訪れた記事が史料上にみえる早い例である。
名前の由来については宝暦十二年(一七六二)の『京町鑑』は、室があったことによるとしている。
伏見区の町名。豊臣秀吉の養子ともなった羽柴(池田)長吉の屋敷が構えられていたことによる。
柳馬場は応仁の乱で原野となっていた二条通ぞいに、織田信長が整備し馬場として柳の樹を植えたのが始まり。
『山州名跡志』は当町付近に丘・谷といった山里の景観の風情に似せた庭園が造られていたことによる。
山科盆地のほぼ全域をさす広域地名で、『和名抄』では山城国宇治郡の郷として記載されている。
古くは京都と奈良を結ぶ大和街道にあたるのでこの名があるという。
町名の由来は、応仁の乱の西軍の大将、山名宗全の邸宅があったことによる。
学区名は小学校が柳馬場通御池上ルにあるところから、その通り名に因んで付けられた。
その名の由来は、東山の麓原(山麓)の転訛したものとも、髑髏原に因むものともいわれるが確証はない。